Thu 01-12-2011 : MOMM (Korean dance magazine), Daisuke Muto


韓国のダンス誌『MOMM』12 月号掲載レビュー(文:武藤大祐)
日常の喪失̶̶『横浜借景』
10 月末、国内外のダンサーや振付家が中心となって『横浜借景 Borrowed Landscape
- Yokohama』というサイトスペシフィック作品が上演された。会場は、横浜の住宅展示場
にあるモデル住宅の一つで、観客は一回に15 人しか入れない。
ベルギーに拠点を置くハイネ・アヴダル(Heine Avdal)と篠崎由紀子は、今年2月にも
横浜で『Field Works-office』という作品を上演している。この時の会場はオフィスビルの
一室で、実際に通常業務が行なわれている中で展開されるインスタレーション・パフォーマ
ンスだった。筆者は見ることができなかったのだが、通常勤務中の社員たちとパフォーマー
が入り混じり、観客はわずか数名のみというこの「フィールドワーク」はいかにも刺激的な
アイディアである。それに対し、今回の『横浜借景』は実際に人が住んでいる住宅ではない。
家具や日用品を使いながら日常と虚構の境界で戯れるようなパフォーマンスなのだろう、と
の予測は容易に立つが、やはり住宅展示場のモデル住宅という点に物足りなさを感じる。本
当に誰かが生活している家を使うことは難しかったのだろうか。̶̶しかし実際に会場に着
いてみると、まったく違う感情が湧き起こってきた。
住宅展示場は駅から徒歩10 分ほどのところで、殺風景な商業ビルなどに隣接した敷地に、
意匠を凝らしたモデル住宅が居並ぶ。開演前に、家々を眺めながら少し歩き回ってみた。レ
ンガ造りの壁に巨大なガラスが大胆にはめ込まれていたり、モダンな間取りに贅沢な和室が
組み合わされていたり、お洒落なカフェのようなテラスが設けてあったり、一軒一軒のデザ
インはほとんど無邪気ともいえるほどの、「理想の住まい」への夢と憧れに満ちている。モ
デル住宅とは、予算や周辺環境などによって妥協を強いられる実際の建築とは異なり、住ま
いに対する人々の希望や欲望を極端なまでに凝縮して見せるものなのだ。
しかしこうした「理想的な」家々の輝かしく誇らしげですらある佇まいが、不毛な絵空事
として感じられてしまったとしても、それは決して筆者の主観ではないだろう。3月11 日
のあの震災を経験し、そして今なお原発事故の脅威にさらされ続けているわれわれは、こう
した無邪気な「理想」の展示を前にして、虚しさを覚えずにはいられない。安心して住まう
ことのできる「家」などという場所のイメージを、われわれはもう持てなくなっているので
ある。あの日から半年以上が経ち、ようやく余震は終息しつつあるものの、土壌や食物の放
射能汚染が広がっているニュースは毎日報じられ、不安はいや増すばかりだというのに、被
災地を除けばあたかも元の日常生活が取り戻されたかのような錯覚さえ生み出されている。
政府やマスメディアによる巧妙な演出がいかに効果的に働いているとはいっても、こんな状
況下で「理想の住まい」などというものに本気になれる人はいないはずである。これこそま
さにわれわれの直面している現実なのだ。
会場となる住宅の広々とした玄関に足を踏み入れると、部屋や廊下のあちこちに人がいて、
凍りついたように停まっている。テーブルで乾杯をしている男女、ソファで新聞を読む男、
台所で料理をしている女、など。カチコチという時計の音だけが響いている。いくつもの部
屋の中を見て回っていると、やがて料理をする音や、話し声などが少しずつ聞こえ始め、パ
フォーマーたちもゆっくり動き出す。階段をゆっくり降りてくる男、窓の外をのぞき込む女、
トイレに入ってうずくまる男。静まり返ってはいるが、生活音が建物の中のあちこちに置か
れているらしいスピーカーから時折聞こえてくる。観客はパフォーマーたちの動きを追った
り、音の聞こえてくる方へ移動したりしつつ、部屋や廊下などの空間を味わい、無言の人々
が演じる日常生活の断片を見る。少女のようなワンピースを着たダンサーは子供部屋で一心
不乱にお絵かきをしている。スーツ姿の男が赤ん坊の人形をもって来て、半屋外に作り付け
られた贅沢なジャグジーで体を洗ってやる。台所で料理をしていた女はベッドルームに移動
して、どういうわけか顔を手で覆いながら徐々に激しく暴れ始め、錯乱状態に陥って部屋の
隅にうずくまる。テラスで他愛もない口喧嘩をし始める男女は、自分のセリフを、紙で作っ
たマンガの吹き出しのようなものを自分で頭上に掲げることによって示す。
パフォーマーたちの演技は、一見すると日常動作に近いが、しばしばマンガ的に誇張され
た無言の身振りでもあり、生々しいリアルさと芝居がかった虚構性の絶妙なあわいにある。
そしてそれは、建物自体に充満する作り物めいた「日常」の雰囲気とも見事に呼応している。
つまりモデル住宅が、現実の住居というよりもむしろ住居に対するわれわれのイメージや欲
望を凝縮して映し出してみせるシミュラークル(simulacre)であるように、彼ら彼女らの
演技もまた、瑣末な日常を生々しくリアルに提示するのではなく、日常生活についてわれわ
れがどのようなイメージを抱き、どのような欲望を抱いているかを凝縮して提示するシミュ
ラークルに他ならないのである。
やがてテラスに隣接したバーで音楽がかかると、全員がそこに集まってきて、踊ったり、
酒を飲んでふざけ合ったり、のパーティーが始まる。ひとしきりの騒ぎが終わると、パフォ
ーマーたちは一人ずつ階段を降りて去っていくのだが、観客もそれを追って階下に移動する
と、そこにはもう誰もいない。リビングも台所も風呂場ももぬけの殻で、ただ空虚な時間が
流れ続けているばかりだ。しかし室内には、人々の気配が残っているように感じられる。も
ういなくなってしまった人々の痕跡、記憶、そしてそれを包み込むようにして支える「家」
という空間だけが、静かに持続している。それは不意を突くようにして訪れた、メランコリ
ックな光景だった。津波によって消えた町、あるいはゴーストタウンになってしまった福島
の町の中に佇んでいるような、あるいはまた、被災地から遠く離れたわれわれの日常生活の
根底が突如として剥き出しになって現れたような、そんな瞬間だった。
アヴダルと篠崎の『横浜借景』は、われわれの日常的な生のありよう、すなわち今まで(3
月11 日まで)当たり前のように過ごして来た日々の営みがどのようなものであったか、そ
して「日常」なるものに対してわれわれが漠然と抱いてきた安心感と依存とを、はっきりと
対象化して見せてくれた。当分の間、われわれが安心して過ごすことのできる「日常」など
は訪れないだろう。物理的条件ばかりではない。むしろ「日常」をめぐるわれわれのイメー
ジや欲望をこそ、変えなければならない。そしてその可能性は今まさに開かれているともい
えるのだ。
『横浜借景 Borrowed Landscape - Yokohama』
2011 年10 月28 日~11 月1日
会場/横浜ホームコレクション内「ハウゼ」モデルホーム
コンセプト・演出/ハイネ・アヴダル(Heine Avdal)、篠崎由紀子
テキスト/岡田利規
音響デザイン/ファブリス・モワネ(Fabrice Moinet)
振付・出演/ハイネ・アヴダル、篠崎由紀子、小浜正寛、神村恵、社本多加、川口隆夫、長
内裕美

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